HOME
隠岐騒動記念碑

隠岐周辺の日本海を外国船が行き来し、緊張が高まっていた幕末。
京都には隠岐出身の国学者で尊王攘夷の精神的指導者であった中沼了三(1816−1896)がいた。
国を愁う隠岐の若者達は自立の精神のもとに了三に師事し隠岐の島に学校(文武館)を設置しようと動いた。
これを阻止しようとした松江藩とのあいだに生まれた軋轢は次第に大きくなっていく

慶応三年1868年3月19日夜明け、各自武器を持ち、武器なき者は飛口、
竹槍等をもった三千余人の大衆が隊伍を整えて堂々と上西を出発して
西郷の陣屋へ向かった。

 「天領御料と相成候間、早々此の地御退去なさるべく候」と陣屋に集結した
正義党(隠岐の同志)は松江藩役人に対して六ヶ条の条文を提出して回答を求めた。
この条文の提出と三千人の同志の圧力によって、
松江藩の役人は三月十九日付の屈服状を
提出して隠岐を退いた。正義党は去り行く一行に対して、
白米四斗入二俵、清酒一樽を贈った。隠岐維新がやさしい革命と言われるのは、
無血革命であったことと、敵方に餞別を贈ったというこのエピソードに由来する

「皇国ノ民タル名分ヲ失ハザルコト第一ニ候、此末文武ニハゲミ攘夷ノ布告相待
ツベキモノ也」と宣言した正義党は西郷陣屋に会議所と
総会所を持つ自治政府を設立するに到った。
この事件を地方自治のさきがけと捉え、檄文を読み上げる「隠岐コミューン祭
が毎年この場所で行われている。
※隠岐楽散歩絵図スポット

(隠岐楽散歩絵図は、ホテルや、商店、観光協会で配布いたしております。)

風待商店街とは、西郷港界隈の商店協同のWEBサイトです。
All Rights Reserved by Kazemachi-syoutengai Since 2003
お問い合わせは、info@oki-kazemachi.com まで